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第23回 : 「蕨・戸田にもあった朝鮮人強制連行」

 2018年10月30日、韓国大法院は新日鉄住金に対し元徴用工への賠償を命じる判決を下しました。しかし、日本政府や多くのマスコミは日韓請求権協定で解決済みなのに何を今更と非難するばかりで、 植民地支配のもとでの非人道的な強制労働の実態に向き合い、被害者を救済しようという姿勢は見られません。
 埼玉県内でも多くの朝鮮人が強制連行され、鉱山、軍需工場などで劣悪な労働環境のもとで酷使されました。蕨の元市長金子吉衛氏は著書『蕨の空襲と戦時下の記録』の中で、「韓国の労務者蕨に来る」 という見出しで、戦時下に朝鮮人を連れてきて働かせたことを浅賀正弘氏からの聞き取りとして記しています。
 当時、国道17号線沿いの戸田橋の近くに飛行機の残骸を炉に入れてアルミを再生する古河電工軽金属処理所(最盛時従業員1200人、現戸田市川岸3丁目)という軍需工場がありました。 戦後この工場跡地は日本農薬の工場となり、その後「パロットプラザ」というゴルフ練習場とテニスコートになっていましたが、最近取り壊され再開発の工事がすすめられています【写真】。
 そこへ1944(昭和19)年秋ころ、労動力不足を補うため150人の朝鮮人を平壌の北の村から連れてきたのです。この仕事に携わったのが、当時厚生省の戦時僧侶勤労動員令でこの工場に出向していた蕨の 長泉院という寺の住職浅賀氏でした。浅賀氏は朝鮮人を収容する宿舎(「訓練所」と呼ばれた)の所長にもなっています。
 厚生課長として主に食事の世話などをしていた蕨のS氏からの聞き取りによれば、朝鮮人は着の身着のままで連れてこられ、年令は17歳から19歳くらいの青年ばかりでしたが、結婚して子どもがいる人も いたといいます。宿舎には国道17号線沿いのボロ工場(現在は蕨消防署がある、蕨市錦町5丁目)が当てられました。蕨へ来て一週間ほどして、全員が神奈川方面へ逃亡する事件が発生しています。 葉山警察に捕まり、すぐに連れ戻されましたが、原因は「電気の技師になれる」「日光で働ける」と説明されていたのに、実際は炎熱の反射炉でアルミを溶かしインゴットを作る苛酷な労働だったからの ようです。朝鮮人たちは騙されて連れてこられ働かされていたのです。
 彼らは5~6人の班に編成され、毎朝2人の軍人の教官に連れられて工場まで約30分歩いて通いました。教官はよく朝鮮人を殴っていたといいます。仕事はとにかく熱いところでの作業だったので、 みんな裸になって塩をなめながら働いたそうです。賃金は日当2円弱だったといいますが、実際に彼らに支払われたかどうかは不明です。
 1945年8月15日、敗戦の玉音放送があった時はちょうど長泉院で工場長の夫人の葬儀をしていたのですが、そこに参列していた朝鮮人がその場で一斉に万歳を叫んだといいます。 連れてこられた朝鮮人がどんな思いで働いていたかを物語る出来事といえるでしょう。
 家庭を持つ青年まで騙して連れてきて、苛酷な労働を強制したというのが蕨・戸田の朝鮮人強制連行の実態だったのです。

(せきはら まさひろ=前・埼労連副議長)



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