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第22回 : 「武州世直し一揆」

 1866(慶応2)年6月13日の夜、秩父郡名栗村から始まった一揆は直ちに飯能宿に押し寄せ、その後19日までの7日間、西北武蔵一帯、一部は上野にも及ぶ大一揆へと拡大しました。 最後は幕府の鉄砲隊によって鎮圧されますが、参加者10万人以上といわれるこの大一揆は「武州世直し一揆」とよばれています。首謀者とされたのは上名栗の紋次郎と豊五郎という貧しい小作農民で、 紋次郎は宮大工、豊五郎は地主の家で年季奉公人をして生活していた人物です。
 青木虹二氏の研究によれば、この慶応2年の全国の百姓一揆発生件数は106件で江戸時代最高を記録しています。この2年後には江戸幕府は倒れ、明治新政府が生まれますが、 幕府と藩の支配体制が行き詰っていたことを物語る大一揆だったといえます。

物価高騰の原因は横浜開港と長州戦争
 1858年の安政の五ヵ国条約によって横浜で貿易が開始されると、諸物価は4倍から5倍に値上がりし、とりわけ慶応2年は第2次長州戦争が始まることが伝えられると米の価格はさらに急騰しました。 こうした状況のなかで最も苦しめられたのが貧しい小作農民たちでした。彼らは農業のかたわら日雇い人足などの仕事に就き、その賃金で何とか日々の生活をしのぐ賃金労働者的な面も持っていました。 一方、村には土地を集積して地主になるとともに様々な商工業や高利貸しなどを営み、財を蓄える豪農とよばれる農民がいました。彼らの多くは村役人として、村の政治も取り仕切っていました。

行き詰まった幕府の支配体制
 江戸時代はじめの頃の支配構造は、幕府と藩の武士が村の農民から年貢を取り立てるというものでした。幕末になっても、武士は政治的には支配者でしたが、村の豪農たちが日雇いを使って様々な経営を行い、 貧農からは小作料を取るというのが社会の主たる構造になっていたのです。
 「武州世直し一揆」では、米価の値上がりにより生活に困窮した日雇いや貧農たちが、米価の値下げ、米・金の施し、質物の返還を要求し、これを受け入れない豪農、 なかでも貿易商人らを打ちこわしたのです。その際注目すべきは「今般世直しの為打ちこわし致し候」と「世直し」を掲げていたことです。「世直し」とは、世の中そのものを貧しい民衆のためにつくり かえるということです。単に米価の値下げなどを豪農に要求するだけでなく、自分たちの行動が幕府と藩の支配体制の根本的な転換をめざすものだとも想っていたのです。

一揆の責任は「為政の官吏」にあり
 この大一揆を目の当たりにした秩父の医者・伊古田純道は「此の暴乱ひとり国民の罪となしがたし、為政の官吏もまた罪する所あらんか…」(「賊民略記」)と一揆の責任は参加した人々にあるのではなく、 幕府政治にあるとはっきりと指摘していました。幕府と藩の武士による支配は限界に達していたのです。
 一昨年2016年は「武州世直し一揆」から150年という節目の年でした。地元の名栗、飯能の市民の方々が、この民衆のたたかいをあらためて掘り起こし、次の世代に引き継ごうと記念行事や書籍の出版に 取り組まれたことは貴重です。

【写真は上名栗の正覚寺。首謀者とされた島田紋次郎と新井豊五郎はこの寺の檀信徒だった。】

(せきはら まさひろ=前・埼労連副議長)



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