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第21回 : 「天保7年幸手宿打ちこわし」

飢饉に苦しみ「世直し」を求める
 江戸時代には何度か大きな飢饉が襲い、民衆の生活を苦しめています。1732(享保17)年の享保の飢饉、1782(天明2)年から数年に及ぶ天明の飢饉、そして1832(天保3)年からの天保の飢饉は深刻でした。
 原因は天候不順、稲の害虫の大発生、噴火など自然災害による凶作ですが、飢饉の被害を拡大させたのは適切な対策を取れなかった幕府や藩の政治の責任でもありました。
 特に1836(天保7)年の飢饉による米不足は酷いもので、この年9月の三河国加茂一揆では「世直し神々来て現罰を当て給ふ」と一揆勢が叫んでいます。民衆は、ただ年貢減免や米の安売りを要求する だけでなく、「世直し」という社会の根本的な変革を心に抱いていたと考えられます。

米価の高騰に窮民が立ち上がる
 この年12月、日光街道幸手宿で米価高騰に苦しむ窮民が打ちこわしを起こします。窮民たちは、米屋などの富裕者に対して米を買い置き値段で売るか、相場で売って代金は半分支払い残額は出来秋に 支払うことにするかどちらかにしてくれとの要求を出します。
 これを富裕者が断ると、「あら物や・米や・酒造や」など37軒が打ちこわされたのです。その後首謀者の6人は町名主に自首します。そして、取り調べのために江戸に送られる途中でこれまでに貯めた 金を銭蒔(ぜにまき)したいと申し出て許されます。
 この銭は実際は打ちこわしの際に手に入れたものなのですが、杉戸宿に30貫文、粕壁宿に30貫文、大沢・越谷宿に30貫文、計90貫文を蒔いたのです。すると、幸手宿ばかりか銭を受け取った宿からも 6人にたいする見舞が山のように届くのです。結局6人は追放・敲(たた)きなどの処罰を受けたのですが、地域社会の英雄になっていきます。一方、打ちこわされた37人も処罰を受け、世間の面目を 失墜して幸手宿から逃げ出していくのです。

幕府政治の行き詰まり
 飢饉で多くの人々が苦しんでいるときは、富裕者が窮民に対して一定の対策を取ることは社会的に正当なことであると見られていたのです。このような観念が一揆や打ちこわしという 実力行使によってしか機能しなかったというところに幕府政治の行き詰まりが現れていたと見てよいでしょう。

【写真は幸手宿の正福寺。当時、穀屋を襲撃することを予告し参加者を招集する貼札が立てられました。】

【参考】
安丸良夫「困民党の意識過程」(『文明化の経験』所収)

(せきはら まさひろ=前・埼労連副議長)



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