コラム連載一覧

第20回 : 「明和の大一揆」

 江戸時代になって、全国の土地は将軍と大名(幕府と藩)が土地と人民を統治する支配体制がつくられました。豊臣秀吉の兵農分離と検地によって、村と農民は全国的な規模で統一的に把握され、 これが近世社会の基盤となりました。村の検地帳に登録された本百姓が米を基本とする年貢と諸役を納める村の正規の構成員でした。
 18世紀後半の頃から商品生産や流通の拡大にともなって、農民たちの闘いは幕府領・大名領を超えて共通の要求を掲げた広域の闘いになっていきます。 その代表的なものが、1764(明和元)年12月に起きた明和の大一揆とよばれる闘いです。

助郷の負担拡大に20万人が立ち上がる
 当時中山道の各宿駅には、幕府役人などの荷物を運ぶために人足50人・馬50疋が常備されていました。これを伝馬役といい、宿駅の町人・百姓や近隣の村々の百姓が負担していました。 幕府・大名の交通量の増大にともなって、伝馬だけでは不足になったため、1864年幕府はそれを補う人馬を提供する新規の村「助郷村」の拡大を命ずるお触れを出したのです。 この新たな負担に対し信州・上州・武州の農民たちはいっせいに反対に立ち上がったのです。その参加人数は20万人といわれています。この背景には、この年8月の朝鮮使節の接待費としてこれらの 地方の農民から高額の国役金を取り立てていたこともありました。
 閏12月16日に美里町の十条河原に、本庄宿の新助郷に指定された195ヵ村1万8千余人が集まり、闘いが開始されました。その後、深谷宿・熊谷宿・鴻巣宿・桶川宿・上尾宿の新助郷村も次々と蜂起し、 幕府の新助郷計画に加担していたと見なされた豪農商も打ちこわしにあっています。

新たな助郷は無期延期に
 こうした闘いの結果、幕府は新たな助郷の拡大を無期延期にせざるをえなくなります。ただ、事件後幕府は一揆参加者に対する徹底した追及を行い、多数の農民を処罰しています。

【写真は明和の大一揆の発端となった美里の十条河原には、死刑となった名主・遠藤兵内が義民として顕彰されています。】

【参考】
林基「宝暦―天明期の社会情勢」
埼玉歴教協「さいたま―昔と今―」
(せきはら まさひろ=前・埼労連副議長)



お知らせ


お知らせ

Copyright© 2013 Sairouren All Rights Reserved.