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第18回 : 「越ケ谷飛行場」

 県立越谷西高校のグラウンドの南側、さいたま市岩槻区末田・しらこばと水上公園の前をとおる道路は、約1500㍍真っ直ぐ南北に走っています。この道路が幅60㍍の飛行場の滑走路だったことを 知っている人はほとんどいないでしょう。この飛行場は陸軍では越ケ谷飛行場、越谷では荻島飛行場、岩槻では新和(にいわ)飛行場、地元では論田飛行場と呼ばれていました。現在そのことを示す 説明版なども何もありません。
 戦争中、埼玉県内には児玉・熊谷・所沢・高萩・桶川など10ヵ所の飛行場がありました。戦争末期には、特攻機の訓練のために使用されたところもあり、若いパイロットたちは沖縄への出撃に向けて 埼玉から鹿児島の知覧や鹿屋などの出撃基地へと飛び立っていったのです。この越ケ谷飛行場は1944(㍼19)年に急遽地元の14戸の農家を陸軍が強制的に立ち退かせて建設を開始し、 敗戦間際の翌1945(㍼20)年7月に完成しています。ですから、実際にはこの飛行場は使用されることはありませんでした。越ケ谷飛行場の建設目的を示す史料は今のところ見つかっていませんが、 建設時期から見て本土決戦体制づくりの一環ではないかと考えられます。
 飛行場の建設は、近隣の町村から動員された「勤労奉仕隊」と日本に連れてこられた朝鮮人によって行われました。岩槻町からだけでも1日平均60人、多い日は100人近くの人々が動員されています。 戦時下ですから、その多くは女性や年配者だったようです。もともとは沼地や田んぼの軟弱な地盤の土地だったので、滑走路づくりはかなりの難工事だったようです。伊豆半島から運んできた 割栗石(わりくりいし)という大きな石を掘り下げた地面に入れ、隙間に砂利や石炭がらを入れて整地していきました。悪天候や土木機械の不足などもあって工事は大幅に遅れました。
 戦後、アメリカ軍が飛行場として使用しようと考え、数機の米軍機が着陸しましたが、滑走路の地盤が軟弱なため飛行機がバウンドしてしまい使えないことが分かって、引き上げていきました。 その後、土地は1946年以降に元の耕作者の農家に返還され、再び開拓されていきました。しかし、一度つくった滑走路をもとの田んぼにもどすには大変な苦労がありました。国家が行う戦争というものが、 普通に生活し、生きていこうとする人々にとってはいかに理不尽なものであるかがよく分かる飛行場建設だったのではないでしょうか。

【参考資料】
「戦争中の西高は飛行場だった」越谷西高校社会部、1995年
(せきはら まさひろ=前・埼労連副議長)



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